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GRANCINO, Giovanni (1637-1709)

Giovanni Battista Grancino I


Giovanni Battista Grancino Ⅰ~Grancino Family

(ジョバンニ・バティスタ・グランチーノ)

ミラノのヴァイオリンでは最も初期のファミリーとして知られていますが、それは1600年代後半であり、他のイタリアメーカーの中では比較的遅い時期になります。近都市のブレシアのメーカー、ガスパー・ベルトロッティ・ダ・サロ(1540-1609)が亡くなっておおよそ50年、ジョバンニ・パオロ・マジーニ(1580-1630)が亡くなって30年、そしてクレモナではニコロ・アマティ(1596-1684)が1世紀もの間、工房を運営させた頃でした。

※①1900年頃の風景。グランチーノが自宅と工房を持っていたコントラーダ ラルガ通りの終わりにある広場。左の建物はミラノ大司教の家で、真裏にミラノ大聖堂があります。

 

この時期にミラノで作られたヴァイオリンは、オリジナルのラベルが貼られていないものが多く、完全に製作者を特定することは困難です。しかし、当時のミラノでジョバンニ・グランチーノ親子と弟であるフランチェスコ・グランチーノが最も重要なメーカーであったことは十分に確立されています。オリジナルのラベルが貼られたとされる1670-1680の期間に作られたヴィオラを見てみると、、

※②グランチーノ兄弟製作の1680年頃のヴィオラ

 ※②きれいな造りではありますが、グァルネリ・デル・ジェスや初期のアントニオ・ストラディヴァリとはスタイルが全く違い、またニコロ・アマティとも異なる為、この楽器を見る限りではグランチーノ兄弟のどちらかがクレモナで製作の勉強をしたとは考えられません。

 1900年までの様々な書籍には、パオロ・グランチーノがニコロ・アマティの弟子であったとされており、その流れからジョバンニ&フランチェスコ兄弟もニコロ・アマティと関係しているとされていました。

しかし、ヒル商会(*英国の楽器商、膨大な名器のデータを保有)のグァルネリの書籍や、クレモナのアーカイブを確認すると、パオロ・グランチーノという製作家は全く出てこない為、権威のあるヒルの情報からすれば、この説は違うと考えることができます。

 

フランチェスコも不思議な人物で、これまでの多くの研究にも関わらず情報が少ない人物です。対照的にジョバンニ・グランチーノは十分に情報があります。1637年にミラノのコントラーダ ラルガで生まれ、彼の名付け親はおそらく叔父とされているミケランジェロ・グランチーノです。ミケランジェロは、当時のミラノ大聖堂のマエストロ ディ カペラであり、町で最も重要なミュージシャンでした。ただ、この繋がりはジョバンニの仕事に影響するものではなかったようです。 

ジョバンニの父親はアンドレアであり、コツィオ ディ サラブエ伯爵(1755-1840)の論文によると、グランチーノファミリー最初の製作家として「アンドレアは美しい楽器をいくつか作った」と紹介をしていました。コツィオの主な情報源はピエトロ・ジョヴァンニ・マンテガッツァファミリーであり、彼らはアンドレア・グランチーノの作品を見た可能性があります。

1901年に発行されたLaurent Gurillet著のLes Ancêtres du Violonの第2巻では、アンドレアについて言及しており、彼のラベルに対して非常に悪いイメージを持っていたようです。

1646年にアンドレアが製作したとされる楽器のラベルは、ジョバンニのラベルの書体、文言と非常に似ておりパオロと同様に偽物の可能性があります。現在ミラノの博物館にある、珍しく美しい1662年ジョバンニ製作のヴィオレッタには、ジョバンニの素敵なラベルが貼られており、(本物ならば)当時、わずか25歳であったジョバンニのその高品質の技量からみて、既に1流の腕を持っていたと推測されます。しかしその師匠が父アンドレアであったかは疑問な点が多いようです。

1660年の初め、製作家バルトロメオ・パスタ(c.1640-c.1706)がミラノへ来ます。1660年のクレモナの国勢調査によると、彼はニコロ・アマティの工房の居住者と記録されています。ジョバンニと年齢の近いバルトロメオがどのような関係性であったかは分かりませんが、バルトロメオの楽器のラベルにもコントラーダ ラルガの記載があることから、同じ通り内※①で製作をしていたのは間違いないと思われます。

弟 フランチェスコとの関係に何が起こったかは不明ですが、ジョバンニは1680年頃から自身のヴァイオリンとチェロを多く製作しました。これらの楽器はどれも高品質で、美しいオイルニスが使用されています。

中には ‘Contrada Larga at the Sign of the Crown’ (王冠印のコントラーダ ラルガ)と記載された珍しいラベルの楽器も1900年初頭にヒル商会が発見しています。

  

※③ 1680年頃のジョバンニ・グランチーノ Ⅰのヴァイオリン。スタイルは※②の兄弟製作のヴィオラに似ている。

このように、グランチーノファミリーが当時のミラノの弦楽器製作の中心であり、他の製作家がここで技術を学んだことは間違いありません。ただ、将来的に最も影響を与えるのは、ミラノの次の重要なファミリーの創設者であるカルロ・ジュゼッペ・テストーレ(c.1660-1738)です。

※④ 1695年頃のジョバンニ・グランチーノ Ⅰのヴァイオリン。1690年代からクレモナの作風が用いられジョバンニのスタイルが確立していきます。

 

しかし、ジョバンニ・グランチーノⅠの最高の弟子は息子であるジョバンニⅡ(1673-c.1723)であり、1700年頃から信頼のできる助手となり、グランチーノ工房での製作の主を担っていました。しかし、息子が製作をした楽器でも、ラベルは工房の所有者の名前が付けられる為、この頃の楽器は父のラベルで息子作のヴァイオリンが多くあることを知っておく必要があります。親子で多くの製作をした1700年頃はグランチーノの成功の頂点とも言えます。

1700年代のグランチーノのヴァイオリンはアウトラインとアーチに、ニコロ・アマティの影響を強く感じます。

グランチーノは独自のスタイルを一部残しつつもクレモナの作風をうまく取り入れています。ただ、その造りからは同時期にクレモナで活躍をしていたとされるアントニオ・ストラディヴァリの影響は全く感じられません。

また、グランチーノはチェロ製作にも多くの時間を費やしました。その美しさと音質は現代でも1流の楽器にランク付けされており、内数本は傑作と評価されています。

※⑤ 息子ジョバンニⅡの手が加わったジョバンニ・グランチーノのチェロ

息子のジョバンニⅡは1694年にローラ・グアリーナという女性と結婚をします。2人は工房の近くに住んでいました。1698年と1700年にミケランジェロとフランチェスコが生まれ、彼らもまた父の仕事を手伝います。ジョバンニⅡは1720年頃には仕事をリタイヤします。子供の成長を見ると順風満帆に見えますが、ミラノの市場を支配している中で、他の製作家との関係の拗れもあったようです。

※⑥ 1705年頃のチェロ、※⑤に比べるとロウバウツが短くなっています。

1708年の秋に事件が起こります。同じコントラーダ ラルガで製作をしていた10歳年下のアントニオ・マリア・ラヴァッツァ(1683-1708)と揉めてしまいます。原因は明らかになっていませんが、ラヴァッツァがジョバンニⅡを剣で刺し、重傷を負わせます。捜査当局がこの事件を捜査している間、ラヴァッツァへはグランチーノの工房へ近づくことを禁じられていました。これを破り、同僚の工房でグランチーノを見つけると再び襲いかかります、が負傷をしたのはラヴァッツァのほうでした。その後のジョバンニⅡの証言によると、今回はジョバンニⅡが返り討ちしたようです。足を負傷したラヴァッツァは2日後に亡くなりました。

この件により、ジョバンニⅡは裁判で死刑判決となりますが、逃亡をします。この裁判の最中、1709年にジョバンニⅠは亡くなり、工房の権利等や財産がジョバンニⅡへ相続されますが、勿論没収されてしまいます。ジョバンニⅠの未亡人、ローラと息子2人は自宅を離れることを余儀なくされました。ローラは工房存続のために、息子2人が事業を引き継いで家賃を払うので、仕事を続ける許可求めますが当時10歳くらいの息子では現実味が無く却下されます。結局彼らは、近くの小さなアパートへ引っ越し、自宅と工房は裁判所により1715年に売却されてしまいました。

ジョバンニⅡは身を隠しながらも楽器の製作をしていたとされています。これは家族を養う為と考えられています。しかし、技量は落ち、特にニスの品質は低下していました。1708年以降の楽器にはラベルが無いものが多いのは、逃亡中であったことと、需要が非常に限られていたことが原因ではないかと思われます。

1716年以降、ジョバンニⅡは恩恵(恵みの行為?)を得て自由となり、家族の元へ戻りますが、殺人のレッテルから肩身の狭い思いをし続けた家族からは拒絶され、また工房も無くなっていたため事件以前のような生活に戻すことは出来ませんでした。また、その頃のミラノではすでに弟子であったカルロ・ジュゼッペ・テストーレが活躍をしていました。

ジョバンニⅡがいつどこで生涯を終えたのかは正確に分かっていません。

 

またグランチーノ工房の売却先はフェルディナンド・アルベルティ(1730-1750)ではという説もあります。

理由としては、まだ見つかっていませんが、彼のラベルに(王冠印のコントラーダ ラルガ)が使用されたという情報があるようです。ただそれも定かではない為、単純に当時人気のうちに無くなったグランチーノ工房のブランド力を利用する為の行為だったのかもしれません。

      

Born in 1637, Giovanni Grancino was one of the finest makers of the Milanese school. It is likely that his father Andrea, and perhaps even his grandfather Francesco, were also violin makers. Giovanni had a brother, Francesco, and much of the early instruments of the Grancino family are assumed to be the work of Giovanni and Francesco, although evidence of Francesco’s role is scant. Many of Grancino’s labels bear the segno della corona and contain the address of his workshop on the Contrada Larga in Milan, where he remained for most of his life.

By around 1700 Grancino instruments begin to develop some Amati features, probably for commercial reasons. His output includes many cellos as well as violins, all of which are of superior quality. He was assisted by his son, Giovanni Battista, whose hand is evident in many of his instruments and was probably responsible for work bearing Giovanni’s label produced after 1709.

https://tarisio.com/cozio-archive/browse-the-archive/makers/maker/?Maker_ID=220

1637年に生まれたジョバンニグランチーノは、ミラノの学校の最高のメーカーの1つでした。 彼の父アンドレア、そしておそらく彼の祖父フランチェスコでさえ、バイオリン製作者だった可能性があります。 ジョヴァンニにはフランチェスコという兄弟がいて、フランチェスコの役割の証拠は乏しいものの、グランチーノ家の初期の楽器の多くはジョヴァンニとフランチェスコの作品であると考えられています。 グランチーノのレーベルの多くは、セグノデッラコロナを帯びており、ミラノのコントラダラルガでの彼のワークショップの住所が含まれています。 1700年頃までに、おそらく商業上の理由で、Grancinoの楽器がいくつかのAmati機能の開発を開始します。 彼の作品には多くのチェロとヴァイオリンが含まれており、それらはすべて優れた品質のものです。 彼は息子のジョバンニ・バティスタに助けられました。彼の手は彼の楽器の多くにはっきりと表れており、おそらく1709年以降に製作されたジョバンニのレーベルを付けた作品を担当していました。